8、花は盛りに 月は隈なきをのみ見るものかは

『徒然草』は第137段の冒頭である。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」


春になれば花見の季節だと申し、
夏になれば海の季節だと申し、
秋になれば紅葉の季節だと申し、
冬になれば正月と初詣の季節だと申す。

しかし世間はお構いなしだ。

春の花見で飲み喰い散らかし、
そのゴミを拾うのはいつだって地元の人だ。

夏の海でも祭りでも、彼らは構わず飲み喰い騒ぎ、
捨てれば腐る生ゴミも、意にも介さず投げ捨てる。
お陰で祭りの後は臭くて汚くて歩けたものではない。

秋の山や森でも、自然とうまい空気を味わいに来るというのに、
自家用車で排気ガスを垂れ流し、煙草の臭いを漂わせ、
当たり前のようにゴミを捨てていく。
自然がただそこにあると思っているのか、はたまた傲慢なのか。

冬になれば、7日前まで信じていた西洋の神様から鞍替えして、
作法も守らず、日頃の信心のなさも省みず、
ただいいことありますようにと願いだけを押し付けていく。


そも夏の行事だけは騒ぎ散らす人種は、
一般にはオフシーズンとされる時期にも楽しんでいる人間にとっては、
暖かくなって湧いて出た程度の羽虫のようなものである。
数ばかり多くて、統制がとれておらず、邪魔なだけだ。

そういう人間たちこそ、
プラトニックラブや純愛、夢や理想、信頼や友情といったものに憧れる。
歩きながら道端に煙草を投げ捨てる人間に、子供や妊婦への愛があるとは思えない。
信じるものをコロコロ変える人間に、純愛と縁があるようには思えない。
周囲の迷惑を顧みることができない人間に、信頼などあろうものかと思う。



そんな時代だからこそ、忘れたくないものは心である。
何事もただ広く知れているものが必ずしも正しいわけではない、と、
常に疑う・・・否、信じるために深く知ろうとすることは必要なのだと思う。

誰もがゴミを捨てるから自分がやってもいい、わけではない。
誰もが~は…だと言うからそれが正しい、わけではない。
そのたった一つの心を忘れてしまった瞬間、
人間の心と理性は、欲と惰性に成り果ててしまうのだろうと思う。

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。

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