2、器について

「違いを受け入れられる度量」を「器の大きさ」という。
「ワガママや不正を灰色のまま受け流す実質的無関心」は「器の大きさ」ではない。




器は広く大きいほうがいい、異論はない。
ただ、昨今は何でも受け入れ認めることが器の大きさだ、
という勘違いが広まっているように思える。

弱さを否定しない。未熟さを咎めない。
違いを認め、決して感情的に貶さない。
僕はそう生き、実際そう評されていても、
ワガママを押し通そうとするだけの、
体だけ大人になったお子様を認めてばかりはいられない。


僕には、自ら進んで何かを罰しようという意識はない。
むしろ自分が生真面目で馬鹿正直で、
誠実なのか愚直なのかわからない性格のぶん、
余人を受け入れ認める能力は高いはずなのだ。

学力面でも体力面でも、努力もせずに人並み以上、
そうでなければ最優秀の位置を走り続けてきたので、
素直に自分以外の人を評価すれば、
バカでひ弱な役立たずばかりだ、と言わざるをえない。

しかし決してそういう物言いをせず、
勉強や運動ができない人を決してバカにせず、
「できるようになるまで一緒に、誠心誠意向き合う姿勢」は、
昔から好意的に評されてきたものである。
なおそのような生き方の表現は、
僕の最初の教え子であり勉強の苦手だった妹のものであり、
いわば「他人から賜った言葉」である。

犯罪者さえ更生させてしまうような度量には、
男ならずとも誰もが憧れるだろう。
だがそこにはいつも悪や不正を許さない心があってこそ、なのだ。

自由を認めよう。ならば何がどうあることがあなたの自由か?
個性を認めよう。ならば何がどうあることがあなたの個性か?



「違いを受け入れられる度量」を「器の大きさ」という。
「ワガママや不正を灰色のまま受け流す実質的無関心」は「器の大きさ」ではない。

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